カイ :: キャラクターストーリー

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男は毎晩、同じ夢を見る。
夢はいつも決まって父の切実な叫びから始まる。

「早く逃げろ!お前だけは必ず生き残るんだ。いいな?約束だぞ!…クァァァッ!」

幼い少年の姿をした男は、壮絶な悲鳴をあとに冷え冷えとした真冬の森を全力で駆け抜ける。
耳元に吹きつける風の音や悲鳴、途切れる息のせいで少年の心臓は今にも破裂しそうだ。

どれほどの時間を走り続けたのだろう。
疲れ果てて目の前が暗くなる頃、少年は雪の積もったとある街の真ん中に佇んでいることに気づく。

「あの子が例の弓使いの息子だな?」
「あぁ。村の有志に殺されてしまったらしいな。税を上げたことに腹を立てて歯向かったあげくそうなってしまったらしい。」
「魔族らから我々を守るために必要な費用だと言うのに、何がそんなに気に食わなかったんだろう。子供のことも考えて譲るところは譲るべきだったよな。」
「もうすぐ大雪になるらしいし、あいつの命もあと少しかもな。」
「余計なことをして巻き込まれたら困るぞ。さっさと帰って冬越しの準備を急げ。」

少年はざわめく群集のほうへ手を伸ばしてみるが、彼らはそれぞれの家に戻り固く門を閉ざしてしまった。
痩せ細った少年の腹が弱々しく音を鳴らす。

次の瞬間、少年は吹雪の中、別の街の酒場の前に座り込んでいる。
すでに一週間何も口にできなかった少年にとって、身を切る寒さはもう感じられない。
内臓が溶け落ちるような凄まじい飢えが少年の身を支配していた。

少年の耳元に、父の叫ぶ声が聞こえてくる。

『約束だぞ。お前だけは必ず生き残るんだ。必ず生き残るんだ…!』

お父さん、ごめんなさい。約束を守れないかもしれない……。
少年は何度も目に力を入れて強烈な眠気と戦う。
しかし、今日が最後かもしれないという嫌な予感が、少年の最後の意志さえもゆっくりと折りかけていた。

その時だった。突然少年は鼻の奥を刺激するような匂いにパッと目を覚ます。
気配もなく近づいてきた黒ずくめの見知らぬ男が、少年の目の前に一切れのパンを突きつけた。
少年は必死にパンを掴み取ろうとするが、素早く後ろに隠されてしまう。

「君、腹が減っているんだな?食べたければこのパンをやるよ。その代わり、俺の頼みを一つだけ聞いてくれ。どうだ、できるか?」

何かに取り憑かれたような顔でひたすらうなずく少年。

「あそこの酒場の中には悪者がいる。俺はその人にとても大切なものを奪われているんだ。もし君が奴を少しだけ傷つけてくれれば、その間に奪われたものを取り返してくるよ。」

男は少年の手に短剣を握らせた。

「何をすればいいか、説明しなくてもわかるな?」

少年はしばらく短剣を見つめた。
少年の頭の中に、ふと父の教えが浮かんだ。

『息子よ、肝に銘じておけ。人を傷つけることは、結局自分自身を傷つけることだ。』

しかし、鼻の中に充満したパンの匂いと内臓を絞られるような強烈な飢えで、少年の理性はすでに麻痺していた。

「さあ、行け。」

男に背中を押され、少年はゆっくりと酒場の中へ入る。

「よくやった。思ったよりも素晴らしかったぞ。まさか短剣を投げて命中させるとはな。」

少年は下を向いたまま男のほうに手を差し出した。

「あぁ、そうだな。君のパンだ。これからも何かあったら頼みに来るよ。俺の言うとおりにさえすれば食べることには困らないと思うぞ。じゃあまたな。それまでしっかり生きているんだぞ。」

黒ずくめの男は笑みを浮かべたまま、闇の中へ消えていった。

少年は慌ててパンを口に詰め込んだ。
電流が流れるように、身の隅々まで甘い香りが広がっていく。
俺は生き残った。お父さん、俺はこれでお父さんとの約束を守ることができます。
少年の顔に微かな安堵の笑みが浮かびあがる。
しかし同時に、少年は自分が涙を流していることに気づく。
これほど美味しいパンを食べているのに、なぜ自分は泣いているのだろう。
あの男にさえちゃんと従えば必ず生き残れるはずなのに。
…どうしてお父さんの悲しそうな目ばかり頭に浮ぶのだろう。

『…肝に銘じておけ。人を傷つけることは、結局自分自身を傷つけることだ。』

その時はまだ、少年はその意味を理解することができなかった。

男は毎日、同じ夢で目が覚めた。
あの日以来、彼は一度も熟睡していなかった。
また今日も同じ夢か…。

古びた小窓の外から、ゆっくりと朝日が昇っていた。
あれから随分と月日が流れ、かつては少年だった彼の眉間には深いしわが刻まれていた。
しかし彼は、未だにあの瞬間のことを鮮明に覚えている。
むしろ記憶は時が経つほど鮮烈になり、決して色褪せることはなかった。

しかし、相変わらず男は気づいていなかった。
あの時自分の身は救われたが、魂は粉々に砕け散ってしまったということを。
鏡に映った生気のない目は、常に強烈な自己嫌悪でいっぱいになっているということを。
そうやって「壊れた男」は、いつものように軽く支度をして部屋を出る。これが毎日繰り返される男の朝だった。

ドーン。
机の上に、血だらけになった魔族のものとみられる戦利品が鈍い音を立てて落ちた。
向かい側に座っている老人は、感心した顔で品と男を交互に見た。

「やはり素晴らしい。君は一度たりとも俺を失望させたことがない。これを求めてどれほどの人が深手を負ったか…。」

男は老人が差し出した金貨の袋を胸元に入れた。

「まぁ…君が物の価値を気にするような者だったら、これを持って逃げただろうね。君がただの刺激を求める人間で本当に助かったよ。では、今回の件もよろしく頼むぞ。さほど難しくないはずだ。」

老人は貪欲な笑みを浮かべながら男に依頼書を渡した。
男は紙を受け取り、無言で暗い部屋をあとにした。

真昼にもかかわらず、街の路地にはまったく光が差し込んでいない。
しかしそのおかげで、男の身体が血と汗にまみれていることに気づく者もいなかった。
煙たい空気とかすかな鉄の匂いは、吸い込む度に肺の中に粘っこく張りついてくる。
男は近くの井戸で適当に身体を流した。

実のところ彼は、自分の労働に対する報酬があまりにも少ないことに気づいていた。
しかし、彼にとって金はあまり重要なものではなかった。
だが、かといって老人の言うように、殺戮の刺激などを好んでいるわけでもなかった。
彼はむしろ不必要な殺戮を嫌っていた。

彼が求めているのは単に、人並みに食べられて、人並みに眠ることだった。
平凡な行為を繰り返していることそれ自体が、彼にとっては一日一日を生きている証のようなものだった。
しかし、平凡な日常を真似ているだけで、それは本当に「平凡な日常」を暮らしていると言えるのだろうか。
実は、彼の追求している人生がどこか間違っているということを、彼自身も薄々感じていた。
しかし、彼はすでに長い歳月を黒ずくめの男に従い、「裏稼業人」として生きてきた。ゆえに、こういった矛盾さえも彼にとっては日常であった。

彼は静かに目を開いた。
複雑に絡んだ思念を振り払おうと、彼は先ほど老人から受け取った依頼書を広げた。
『寿命を延ばし、若さを取り戻してくれる秘薬の材料。村の北西の森、夜にだけ出没する血を吸う者たちの骨…。』
最近こういう類の依頼が増えてるな。

寿命と若さか…。
長い戦争で荒れ果てた中でも、人間の根本的な欲望や貪欲は衰えを見せない。
いつもそうだった。ふと、彼は黒ずくめの男の言葉を思い出した。

『人間は自分のためだけに生きる存在だ。そのおかげで我々のような影も生きていける。』

なるほど。だから俺も今こうやって生き延びることができているわけだ。
彼は眉間にしわを寄せ、呟いた。
俺、無駄なことばかり考えてるな…。
彼は急いで弓と矢、依頼に必要な道具を揃えて街を発った。

暗く湿った森の中、男はすでに数時間じっと獲物が来るのを待っていた。

月明かりさえない闇夜だった。
やがて素早い足音とともに黒い物体が次第に姿を現した。
…一体か、他に仲間はいないようだ。
男は茂みに隠れたまま、獲物が捕えやすい位置に来るのを待った。

彼が立てた計画はこうだった。
まずは矢を頭に貫通させ、獲物を倒れさせる。
その後、すぐに矢の嵐を浴びせ、確実に行動不能にする。
そして獲物に近づき、素早く狙いの物を奪い取る。
緊急事態が発生した場合は、あらかじめ仕込んでおいたワイヤーで脱出する。
単純な流れだが、これは多くの場面で確実に効果を発揮してきた作戦だった。
いつものように、今日も上手くいくだろう。

彼はゆっくりと静かに長い弓を構え、黒い物体の頭に向かって勢いよく矢を放った。

「キヤァァァッ!!!」

森の中から断末魔の悲鳴が上がった。
命中だった。
矢一発で黒い物体は音とともに倒れた。
続いて男は、空高く矢籠を投げた。
倒れた獲物に向かって、降り注ぐ矢の嵐が黒い物体の全身をバラバラに引き裂いた。
彼は素早く黒い物体に近づき、力強く上半身を蹴り上げた。
倒れた体は微動だにしなかった。
計画通りだな。
男は黒い物体をじっくり観察した。

今まであらゆる魔族を見てきた彼にとっても、これほど完全に骨だけで成り立っている魔族は初めてだった。
まるで死骸から感じられるような、虚しさと不快な死のオーラが漂っていた。
男は急いで骨を集め始めた。

その時だった。彼の背後から冷ややかな寒気が感じられた。
しまった…。彼は手を止め、全身の神経を集中させた。
一、二、三、四…。ちくしょう、数が多すぎる。
奴らはすでに危険を感知し、暗闇の中で気配を隠していたのかもしれない。
徐々に包囲網を狭めてきていた。

少しでも隙を見せれば、奴らは瞬時に襲い掛かって、彼を引き裂いてしまうだろう。
幸いにも、彼にはこのような状況を想定して仕込んだワイヤーがあった。
男はそっと手に持っていたワイヤーを握った。
チャンスはたった一度だけ。
彼は深呼吸をした後、力強く綱を引いた。

強く反動するワイヤーが男の体を持ち上げようとしたその瞬間、想定外の事態が起こった。
倒れていた魔族の手の骨が、彼の手首をぎゅっと握り締め、強く引き寄せ始めたのだ。
慌てた男が魔族のほうを振り向くと、
矢を浴びて散らばった骨が再びまとまって元の形に戻ろうとしていた。

彼は握られた手首の上から魔族の手の骨を矢で突き刺した。
しかし、手の骨はさらに強く手首を縛りつけてくる。
男の目に、魔族の砕けた頭の骨が見えた。
魔族はまるであざ笑うかのように彼の目を見つめている。

男は、自分がらしくないほど油断していたことに気づいた。
なんだか可笑しかった。そういえば今日は余計なことばかり考えていた…。
彼の唇が、失笑で歪んだ。
敵たちはもう男のすぐ後ろまで来ていた。
彼はゆっくりと目を閉じ、今はぼんやりとした記憶の中の父の言葉を振り返った。

『お前だけは必ず生き残るんだ。いいな?約束だぞ!』
男は必死になって脱出する方法を考え続けた。俺は生き残らなければならない。生き残らなければ…!

その瞬間、頭に鋭く鈍重な痛みが感じられた。
視界が一瞬ぼやけ、徐々に身の回りのすべてが遠のき始めた。
必死に意識を保とうとするが無駄な足掻きだった。
だんだん周りの光が消えていく中、彼は一瞬眩しい「光」のようなものを感じた。

目を覚ますと同時に、頭が割れるような頭痛が襲ってくる。
傷からにじみ出た血はまだ固まっていない。
どうやら気を失ってからさほど時間が経っていないようだ。

一体何があったのだろう。
そしてあの眩しい光は…
「光」…?
男は慌てて顔を上げた。
目の前の光景は、これまでの人生で一度も見たことのないものだった。

月の光さえ遮られた漆黒の闇の中、
違和感を覚えるほど眩しく光る鎧を着た者が男を守護するように背を向け、次々と襲い掛かる黒い存在を打ち払っていた。
まるでこの世のものではないような、強烈な光を放つ剣が描く軌跡は、息詰まるほど美しく、同時に驚くほど脅威的だった。
光の剣が敵の攻撃を打ち返すたび、段々と彼らの戦意も失われていくように見えた。
そして遂に、敵たちは一人残らずその場を去っていった。

男は呆然と、眩しい鎧を着た者の後ろ姿を眺めていた。
視線を感じたのだろう、鎧を着た者も彼のほうを振り返った。
その瞬間、眩しすぎるほどの光に彼は思わず手で目を覆った。

男が再び目を開けると、もうそこに光の鎧はなかった。
ただ、風に長い髪をなびかせながら自分のほうに手を差し伸べる一人の剣士の姿があった。

「…お怪我は大丈夫ですか?」

「…貴方、最初から全部見ていたのですね?」

長い沈黙を先に破ったのは彼女だった。
男は小さくうなずいた。

「やはりそうでしたね。気を失われていたので何も見ていないのかと思いました。」
彼女は困ったような表情を見せた。

「でも、もしあのまま放置していたら貴方は死んでしまったはず。その状況を見過ごすわけにはいかなかったのです。」

彼女は優しい手つきで何度も彼の傷に薬のようなものを塗った。

「よし、このくらいしておけば傷が深まることはないでしょう。」
「…ありがとう。」

男が枯れた声で答える。
彼は誰かと会話を交わすことに慣れていなかった。
彼女は返事の代わりに、彼の顔を見て軽く微笑んだ。

「貴方は、傭兵ですか?」
「傭兵なんかより遥かに後ろめたい仕事をやっている。」
「まあ、そうでしょうね。傭兵は普通、命をかけるほどの無謀な依頼は引き受けませんから。貴方はきっと、裏稼業なのでしょう。」

彼女の言葉に、男はふと自分の任務を思い出した。慌てて周辺を見回してみる。

「これを探しているのですか?」

彼女の手には男の獲得した物が握られていた。
男は慌てて取り返そうとするが、素早く後ろに隠されてしまった。

「実は…私には正体を明かしてはいけない事情があって…。しかし結局、貴方を救うために姿を現してしまった…。もしも貴方が今日の事を口外してしまったら、私はおしまいです。」

星の光を反射する彼女の美しい瞳が彼を見つめている。

「…俺は口数の多い人間じゃないから。」
「そうでしょうね。しかしそれだけでは足りません。これは私の命がかかった問題ですから。」

眉間にしわを寄せる男。

「俺にどうしてほしいんだ?」
「しばらく私の隣で護衛をしてもらいたいのです。毎日行動を共にすれば、私の秘密がばらされる心配もないでしょう。」

面倒なことに巻き込まれちまったな…。男は深いため息をついた。
しかし、彼女は自分の命の恩人。それだけは否定することができなかった。

「…いいだろう。」
「助かります。これで少しは安心できますわ。」

彼女は安堵の笑みを浮かべ、男に獲得物を渡した。

「明日の午後、またここで会いましょう。約束ですよ、必ず守ってくださいね。」

彼女は彼と軽く目を合わせ、暗い森の中へ姿を消した。

男はしばらくの間、呆然とした顔で彼女の消えた方向を眺めた。
あまりにも多くの事象が一気に絡み合ったせいで、頭の中が全く整理できずにいた。
宿屋のカビ臭いベッドに身体を横たえてから、ようやく彼は一つの事実を悟る。
今日初めて、彼が積み重ねてきた「平凡な日常」に亀裂が生じたのである。

男は混乱していた。
なんとか頭の中を整理しようとするが、到底抵抗できないほどの疲労感が襲ってくる。
彼の目はゆっくりと閉じられていった。

不思議なことにその晩、男は複雑な心境とは裏腹に、実に久しぶりの深い眠りにつくことができた。

その日から、男は彼女とともに行動し始めた。
主に彼女が行動をし、男は少し離れた場所で彼女を見守る形をとっていた。
劇的だったともいえる彼女との遭遇に劣らず、新しい日常も彼にとっては劇的なものだった。

彼女は、昼間は主に平凡な人々に混じっておしゃべりを楽しんでは、困っている人々を捜し回っていた。
そして夜になれば、彼女は単独行動を始める。
男はただ、彼女が行く先の周辺で待機しながら、近くに危険が潜んでいないかを見張る役割を担っているだけだった。
彼女は一度も男に自分のことを話さなかった。
何をしているか知らされないまま相手に付き添うこと自体、愉快なことではないし、あの日に見た光の鎧についても気になることは山ほどあったが、やはり男も彼女に何かを尋ねることはしなかった。
依頼人と依頼の内容に疑問や好奇心を持つのは、老練な裏稼業らしくないと思ったからだ。

ただ、彼は数日間彼女の傍にいて、いくつかの事実を知った。
彼女の職業はスパイ、またはそれに似た何かである。
彼女は一日のうち多くの時間を、ある手がかりや情報を探ることに費やしていた。
情報の内容が何に関するものなのか、どのくらい重要なものなのか、誰と繋がっているものなのかを把握することは困難だったが、彼女はその情報を得るためならどんな危険も顧みなかった。

彼女は決して不義を見逃さない人だった。
誰かが困難な状況に置かれたり不当な扱いを受けていると、彼女は率先して助けに向かった。
誰かを助けるためなら、彼女は自分の大切な宝剣さえも迷いなく差し出そうとするほどだった。
男は一日に何度も、彼女が余計なことに時間をかけないよう止めなければならなかった。

彼女は生きている全てのものを愛した。
道端に咲いた草一本に対しても感嘆の言葉を述べながら注意深く眺めたりした。
不思議なことに、彼女は決して魔族のことを警戒したり恐れることはしなかった。
むしろ、魔族に対してとても好意的であった。
時おり彼女は、男の前で情熱に満ちた顔をしながら和合について説いた。

「命あるものは全て美しく、平等です。魔族も人間と同じ。どちらかが先に心を開いて歩み寄れば、深い溝は埋まり、結束と和合の時が来るのです。」

実際、彼女は魔族と対面することがあれば、彼女から先に魔族の言葉で話しかけていた。
こういった幼稚な挑戦は多くの場合険悪な結果をもたらしたが、稀に平和な雰囲気の中で話が進んだりすると彼女はこの上なく幸せそうな表情を浮かべていた。

男はこれまで一度も、彼女のような「正義の味方」とされる類の人間像を見たことがなかった。
長い間、人間の利己心と貪欲さに向き合ってきた男にとって、人間とは自分のためだけに生きる存在にすぎなかった。
少なくとも彼の今までの付き合いの中では一人の例外もなかった。
きっと彼女も、自分がより良い世の中を作るという、薄っぺらい欲望を満たすために、自分のやり方で人生を生きているだけなはずである。
他の人々と同様に。

…しかしそうだとしても、どうして彼女の行動一つ一つがこんなにも気になるのか、なぜこんなに複雑な気持ちにさせられるのか。
彼は混乱していた。

ちょうどその時、離れた場所にいた彼女が男に向けて軽く手を振った。
これを見た男はなぜか腹立たしい気持ちになる。
面倒だな、借りを返し終えたらすぐにここから離れよう。彼はそう決めた。
そんな男の心を知るはずもない彼女の明るい笑みは、仄暗い街の情景とは対照的に眩しく、暖かかった。

それから更に時が経った。
男は相変わらず彼女のそばを離れずにいた。

「貴方は私の一挙一動が不満なはずなのに、どうしてずっとそばにいるのです?」
「…こんなくだらねぇ仕事じゃ命の恩返しもできないと思うが。」

男は無愛想に言い返した。
相変わらず彼にとっては彼女の行動一つ一つが目障りだったが、かといって彼女の元を去りたいとも思わなかった。
彼女はそんな男を見て笑っていた。

いつものように男の夢は繰り返され、相変わらず毎晩眠れない夜が続いていた。
しかし、男の目つきには変化があった。
彼の目に、以前はなかった生気が漂い始めた。
彼女は以前よりも単独で行動する時間が増え、そのため男も一人で過ごす時間が長くなった。
たまには仕事を求めて仲介人の老人を訪ねたりもした。
彼の仕事ぶりは相変わらず老練でミスがなく、いつも老人を満足させていた。
しかし男は、これ以上このような仕事で「日常」を生きるという実感を味わうことができなかった。
むしろ、以前の生活を繰り返すほど虚しさだけが増していくような気分だった。

「おじさん、その花、きれいですね。」

彼が考え込んでいると、いつの間にか近づいてきた一人の子供が、男の手にある花を欲しそうに見ている。
男は子供に花を渡した。
子供は嬉しそうな顔で花を握り、向こう側に走り去った。
その後ろ姿を眺める男の口元に、穏やかな笑みがこぼれる。
その微笑みは、どこか彼女のものと似ていた。

さあ、今日は数日ぶりの彼女との再会。
彼は急いで森のほうに向かった。

夕日の差し込む森の向こうから、日差しをたっぷり浴びた彼女がゆっくりと姿を現わした。
…ん?どこか様子がおかしい。
彼女は足を引きずりながら彼のほうに歩いてきていた。
心臓が止まりそうなほどの驚きを受けた彼は、すぐさま彼女の元にに駆けつけた。
近くで見た彼女の状態は思ったよりも深刻だった。

衣服の袖は鋭い何かによって引き裂かれ、細く固い腕は何十個もの擦り傷で埋め尽くされていた。
男の手が震え始める。
他の何より、彼女の白い頬を横切る切り傷を見ると、腹の底から怒りがこみ上げてきた。
まるで自分の頬を切られたような辛さだった。

「ふふ、こんな格好で申し訳ないわ。でもかなり収獲はありましたよ。」

重い沈黙を破り、彼女は軽快な声で男に話しかけた。
どうしてこんな風に笑えるんだろう。男は理解に苦しんだ。
喉の奥から何か熱いものがぐっとこみ上げてくる。

「少しだけ、もう少しだけ頑張れば…」
「あとは…」

男は彼女の言葉を遮った。

「正義の味方を気取るあなたの姿、これ以上見たくないから。」

彼女は驚いた表情で男の顔を見た。
今まで溜め込んでいた冷笑が、速射砲のように彼女へ降り注がれた。

「あなたは単なる一人の人間だ。俺の知る人間とはいつも自分のことだけを考え、自分の欲望に従って行動する利己的な存在。あなたが正義感と勘違いしているその偽善も結局、薄っぺらい自己満足に過ぎないんだよ。俺の目には、他人にちょっかいを出したり、死地に身を投げるあなたの姿は、正義や大義のための崇高なものには見えない。それはただの、欲望を果たすために徹底的に計画された自分勝手な足掻きだ。…だからもうやめておけ。」

話を終えると、彼女は静かに彼の顔を見つめていた。
彼女は動揺することも、腹を立てることもしなかった。
ただ、その目からにじみ出る寂しさのようなものが、彼女の心境を少し覗かせていた。

二人の間に、長い沈黙が続いた。

「…では、また会いましょうね。今日貴方に再会できて嬉しかったです。」

低い声で別れを告げると、彼女は再び足を引きずりながら、ゆっくりとその場を去った。
そして翌日、彼女は男の前に姿を現さなかった。
翌日も、その翌日も、彼女が現れることはなかった。

彼女が姿を消してから、男は再び以前と同じ日常に戻った。
カビ臭い宿屋や長い夜、例の夢も、すべてが以前と同じだった。

ただ一つ、男自身だけが以前とは違っていた。
彼女が隣にいない喪失感がこんなにも大きいものだとは、彼自身も全く予想していなかった。
彼はそれ以降、生きる意味を見失ってしまった。

男は目をつぶって彼女の顔を思い浮かべた。
穏やかな微笑み、風になびく髪、目に映る全てのものを愛おしく見つめていた暖かい視線。
自分のために身を挺して戦っていた光の剣士。
男がこれまで一度も経験することのできなかった世界。
自身の欲望ではなく他人のために、正義と信念を持ちながら前進する世界。
その世界の中心に、いつも誠実に立っている彼女がいた。
自分が遠い昔に夢見たかもしれない理想に向けて、正しい道を進む彼女。
もしかすると俺は、彼女に初めて会ったあの夜からずっと、彼女に憧れていたのかもしれない。
いや、憧れじゃなく「妬み」だったのかも…。

すると男の頭の中に、寂しそうに立ち去る彼女の後ろ姿が浮んだ。
…俺は彼女にひどいことをしてしまった。

男はいつも彼女と待ち合わせしていた森に向かって走り始めた。
彼女がいつまた現れるかわからないが、彼はいつまでも待つ覚悟ができていた。

男は呼吸を荒げながら森に着いた。
素早く一度周囲を見回してみる。
やはり彼女の姿はない。

彼は近くの石の上に腰かけた。
満月の眩しい光が、日中のように明るく周りを照らしていた。月明りを浴びた木々たちが仄かに輝いている。
森は、あの日の激しい戦いを全く思い出させないほど美しかった。

その時だった。どこかから気配が感じられる。
男は神経を集中させた。
彼女なのか?それとも魔族か?
男の心臓が狂ったように打ち出した。
彼は気配を追いながら、慎重に体を動かした。
そしてその瞬間、彼の表情が歪んだ。

そこに彼女がいた。
悲惨な姿で木に寄りかかり、血を流していた。人の気配を感じた彼女は辛うじて目を開けた。

「あ…貴方…。」

苦しみに満ちた顔で、彼女はいつものように微笑みながら彼に挨拶をした。

「嬉しい、久しぶりね…。」

男は彼女が楽な姿勢を取れるよう、周りを整理した。
一目で彼女の怪我が尋常なものではないと分かった。
腹部の傷口からは、何度も鮮血がしみ出ていた。

「…驚かせてごめんなさい。今回はもう少し深くまで入り込んでみました。一人でも大丈夫だろうと思いましたが…結果はこのザマですね。」
「なぜすぐに手当てしに行かなかったんだ。」
「言ったでしょ、私は秘密の多い人間なんです。…何より、ここに来れば貴方がいると思ったから。」

彼は彼女の身体にできた傷に丁寧に薬を塗った。
その姿を見た彼女が静かに笑った。

「…何が可笑しいんだ。」
「いえ、なんとなく。貴方に初めて会った時のことを思い出しました。今回は私が貴方に助けてもらっていますね。」
「別に当たり前のことだ。俺はあの時の借りを返しているだけだから。」

彼女は男の顔をじっと見つめた。
彼女の視線を感じた男の顔が赤く染まり始める。

「…この前はすまなかった。」
「気にしないで、貴方は間違ったことなんて言ってないわ。」
「……。」
「今まで貴方に隠していたことがあります…。実は私、ある出来事の真実をずっと追っているんです。詳しいことは言えませんが、これは間違いなく人間と魔族の両方を危険にさらすことになります。その危険から皆を守るために、私は自分の全てを捧げる覚悟ができています。それが…私の信念だから。でも、あの時貴方の話を聞いて…私は一度自分自身を振り返ってみました。もしかすると貴方の言う通り、私は自分の満足のために、ただ自分の気持ちを楽にするためにこういう事をしているのかもしれない。いえ、本当はもっと前から分かっていたのかも。私がいくら頑張ったところで結局、変わらないものは変わらないということを…。」

しばらくの間、二人は沈黙した。
初めて向き合った彼女の不安と自嘲を前に、彼はかける言葉が見つけられずにいた。
その時、彼女が静かに、そして決意に満ちた声でこう言った。

「でも…、でも私は、今後も立ち止まらずに前へ進みます。私の小さな行動によって、誰かの人生を変えることができるのなら、それがたった一人であっても、仮に薄っぺらい自己満足のための行動であっても、価値はあるはず。」

男は虚を突かれたような顔で彼女を見つめた。
決然とした目、白い頬の傷痕、鍛錬された小さな肩。彼女が掲げている崇高な理想の重さを、彼はひしひしと感じることができた。
泥のような人生の中でもがき続けている自分、しかし彼女は違う。
高潔な信念を身にまとった者。
光の鎧がなくても、存在自体で輝くことができる者。

俺は…彼女に憧れている…。
彼女のように生きていきたい。
俺は彼女のことを……。

視線を落とす男。
今さら光に向かって進むなんて、自分はあまりにも遠くまで来てしまった。
彼女に比べて俺なんかはあまりにも…。

でも…、気持ちぐらい伝えても良いだろう。
彼はゆっくりと話し始めた。

「…俺は…実は、ずっと昔から毎晩同じ夢を見ている。」

今度は彼女が驚いた表情で男の顔を見つめる。
男は人生で初めて、誰かに自分のことを率直に打ち明けた。
毎晩繰り返される少年時代の記憶、黒ずくめの男との出会い、父と交わした最後の約束、他人の欲望を代行し、歪んだピースを強引にはめるように繋いできた人生。

彼女は静かに彼の話に耳を傾けた。
誰かの前で話し、それを聞いてくれる人がいることで、こんなにも気持ちが楽になるとは思ってもいなかった。

「…あなたに出会ってからやっと気づいたんだ。あなたが持つその信念のおかげで、この世の中はまだ清く保たれている。そして俺も、初めて自分自身を振り返ることができた。俺は…あなたとは比べられないほど器が小さく惨めな者だ。一日一日を、夢もなくただ彷徨うように生きている。」
「……。」
「今さらあなたと同じ道を歩むことはできない。でもあなたのおかげで、今は人生を『生きる』意味について少しはわかった気がするよ。」

彼の顔に薄い笑みが浮かんだ。

「…俺は口下手な人間で、うまく伝えられているかわからないけれど…ありがとう。」

すると、突然彼女が男の両手をぎゅっと握った。
両手に暖かい温もりが感じられる。驚いた男は彼女の顔を見た。
彼女は…、彼女は涙を流していた。

「…なぜ…。」

彼女は彼の手を引き、自分の胸に精一杯抱きしめた。
彼女から柔らかな香りが感じられた。

彼女は男にささやいた。

「もう大丈夫だから…大丈夫よ…。」

優しい声が彼の心に触れ、穏やかな波紋を起こした。

「短い人生でたくさんの苦痛を独りで耐えて来たのね。辛かったでしょう…。でもね、それは貴方のせいじゃないわ。」

彼は目をつぶった。
まるで遠い昔、冬の森を駆け抜けていた少年の頃に戻ったような気分だった。

「だから、もう頑張らなくてもいいわ。貴方はこんなに立派な男性に成長している。約束を守ることもできた。もう解放されていいのよ。そして、これからは貴方のためだけに生きて…。」

温かいその一言に、胸の中に無理やり積み重ねられてきた、しこりの壁が一瞬で崩れ落ちた。
男はなぜか声を出して泣きたくなった。
しかし、ずいぶんと昔に乾いてしまったのか涙は出てこない。
そんな彼の気持ちを理解したかのように、温かい手が男の背中に回って、ゆっくり優しくさすり続けていた。
二人は互いの体温で癒し合い、しばらくの間抱き合っていた。

月明かりが照らすある夜、
果てしない雪道を駆け抜けていた少年にもようやく春が訪れた。

空は高く、日差しは暖かかった。
草の匂いをのせた風が男の体を包み込む。

全てが新しく感じられた。
レンガの隙から咲いた雑草さえも美しく、生気に満ち溢れていた。
そして振り向くと、ほんのりと頬の赤い彼女が男を見つめている。

男は彼女に向かって微笑んだ。
彼女も応えるように明るく満面の笑みを見せる。
男も女もそれぞれの荷を下ろして、しばらく二人だけの時間を楽しんだ。
毎日が充実していて、光に満ちた日々だった。
男は少しずつ未来のことを考え始めた。
今までは未来を思い描くことも、そうする必要もなかった。しかし今はすべてが変わった。

そして、ようやく彼にも、自分なりのやり方で少しずつ世の中を変えられるという確信が芽生えた。
彼女が言ったように、小さく価値のなさそうに見える努力でも、誰かの人生を変えることができるのなら、
きっとそれは意味のある人生と言えるだろう。
男は明日の依頼を最後に、今まで続けてきた陰の人生に終わりを告げると決めた。
生き残るという約束はすでに守られている。もうこれ以上思い残すことはない。

男の決心を聞いた彼女は心から喜んでくれた。

「本当におめでとう。貴方が自分らしい人生を生きることができるようになってすごく嬉しいわ。」

彼女は優しく男の髪を撫でた。

「実は私も、貴方に話したいことがあるわ。今夜、私は北に向かうことにしたの。とても決定的な手がかりが見つかってね。あと少しだけ探れば、全貌が見えてきそうなの。」
「……。」
「私はここで立ち止まるわけにはいかない。この時だけのために今まで頑張ってきたんだから。」

そう、彼女は目標に向かって前進する者だった。夢のような日々に浸ってしばらく忘れてしまっていた。

「これですべてが明らかになるはず。今回行ってきたら、貴方にも私が追っていたものについて、少しは説明できると思うわ。」

確信に満ちた声、真っすぐな視線。
信念を語る時の彼女は、いつも美しかった。

「…どんな話を聞かせてくれるか、楽しみだ。」

一瞬笑顔を見せる彼女。

「貴方には想像もできないことだわ。」

その日の夜はいつもよりも早く訪れた。

「明日のこのくらいの時間に戻ってくる予定よ。待っていてくれるよね?」

彼は小さくうなずいた。
しかし、なんだか嫌な予感がする。
彼女をこのまま送ってはいけないのではないか?
彼の眉間に深い溝ができた。
すると彼女は、男の顔を優しく撫でながらこう言った。

「どうしてそんな顔するの、ね。明日また会えるんだから。」

彼女はすぐさま後ろを向いた。

「幸運を祈ってね。」

夜が明けると、男は例の老人を訪ねた。

「ずいぶん久しぶりだな、君が来てくれなきゃ、こっちの商売もあがったりだ。」

老人は軽く文句を言いながら彼を迎えた。
依頼書を受け取った男はすぐにその場を立ち去ろうとした。

「君、最近何をして過ごしてるかわからんが、昔よりずいぶん顔色がよくなったな。」

彼は振り向いて老人のほうを見た。

「今日は魔族らの様子がいつもと違うらしいから、特別に気をつけたほうがいいぞ。」

男は軽くうなずいて目的地へと向かった。

依頼は簡単なものだった。
いつもより弓が軽く感じられる。
矢は軽快な音を出しながら敵の体に吸い込まれていった。
倒れている敵を見て、男は黒ずくめの男を思い出した。
自分を救い、同時に破壊した男。
でも、今まで暮らしてこられたのも彼のおかげだ。少しはありがたく思おう。
彼は頭を上げ、夕焼けに染まっていく空を眺めた。
長年続けてきた彼の日常は、これで終わりを告げた。
彼は身軽な足取りで、彼女と約束した森へ向かった。

男は切り株に腰かけて彼女の帰りを待った。
しかし、約束した時間を過ぎても彼女は現れない。
心の片隅にある一抹の不安を抑えながら、彼はずっと待ち続けた。

すでに夜明けが訪れようとしていた。
依然として彼女が戻る気配はない。
もう我慢の限界だ。
彼女は…彼女は北のほうに行くと言った。
彼は立ち上がり、彼女が向かった方向へと走り始めた。

どれほどの時間走ったのだろう。男は黒く燃え落ちた、とある邸宅の前に辿り着いた。
かつて邸宅だった建物は跡形もなく崩れ落ち、骨組みだけが辛うじて残されていた。
そして、黒く焼け焦げた木からは未だ灰色の煙が上がっている。
鎮火されてからまだそれほど時間は経っていないようだ。

男は自分の心臓が激しく鼓動するのを感じた。
認めたくないが、彼の直感が、彼女はここにいると言っている。
その時だった。
男の目に何かが入ってきた。
それが何なのか、彼は一目見て分かってしまった。

この世のものではないと言わんばかりに燦爛たる光を放つ欠片。
それは、光の鎧の破片だった。
波のように押し寄せる不吉な予感に、彼は身の凍るような激しい恐怖を感じた。
男は歯を食いしばって前に進んだ。
足が震えて思うように動けない。
一歩、一歩、散らばった鎧の破片を辿って彼はゆっくりと足を運んだ。
そして、足が止まった場所で男は崩れ落ちた。

真っ黒に燃えてしまった小さな広場、空から流星が落ちたように散々と散らばった光の欠片の間に、赤く染まった光の騎士が横たわっていた。
どれほどの敵と激戦したのだろう、彼女の周りは剣の跡や折れた槍で埋め尽くされている。
彼女の身を覆った光の鎧は極一部だけが残って辛うじて形を成していた。割れた兜から、顔が半分ほど見えた。
男は這うようにして彼女に近づき、丁寧に兜を脱がせた。

血に濡れた髪が、目を開いたままの顔に力なく落ちる。

彼は彼女の脈をとった。
息はずいぶん前に止まっている。
男は、今まで自分を支えていた何かが完全に崩壊していくのを感じた。

その時、裏手から黒い物体が姿を現わした。
奴らか。
男は頭を上げた。
怒りに燃える瞳に、狂気の眼光が映っている。

彼は力いっぱい弓を握った。
そして、背後から近づく物体を足で強く蹴り倒した。
彼女を守護するように、男は彼女を背にして奴らに向かって素早く弓を射る。
絶え間なく飛び交う彼の矢が、風を鋭く切った。
一、二、三。
予測不能な方向に飛び交う矢が物体を貫通する度、彼らは秋風落葉のように倒れていった。

男の吐き出す気合の声は、まるで崖から突き落とされた者が泣き叫ぶ声のように、陰鬱で悽絶だった。
男は残った最後の一体に向けて高く飛び上がり、奴の後頭部に向かって思いっきり弓を引いた。
ピシッ!鈍音とともに黒い物体はそのまま地面にささった。

苦しそうに息を吐く男。
残ったのは、生臭い血の匂いと寂寞だけだった。

男は少しずつ落ち着きを取り戻した。
それとともに、計り知れないほどの深い絶望が、凄まじい勢いで彼の心を侵食していく。

彼は再び彼女に近づき、虚しそうに空を向いている両目にそっと手をかざし、優しく閉じてあげた。
なぜ彼女はこのような死に方をしなければならなかったのか。
信念のために献身した者への見返りが、魔族の手によって悲惨な最期を迎えるというものなのだろうか。
頭の中には解けない疑問が激しく沸き返っていた。

男はゆっくりと彼女の体を持ち上げた。
その時、彼の手に何かが引っかかった。
彼女の背中に、折れた一本の矢が深く刺し込まれていた。
矢はかなり遠い場所から強い力で射たれているよう見えた。
これが彼女を死に至らせた決定的な致命傷となったのだろう。

……「矢」?
今倒した魔族らは、弓のような道具を使う種族ではない。
なのに、どうして彼女の体に矢が刺し込まれているのだろう。
男は彼女の背中に刺さった矢を引き抜いた後、じっくり調べ始めた。
鋭く特徴のある形の矢先、美しく整えられた矢羽根。
この矢は、決して魔族や一介の狩人などが使うような粗悪なものではない。
職人によって丁寧に仕上げられた、高価なものに違いない。
男は彼女との最後の会話を思い浮かべた。

『今回行ってきたら、貴方にも私が追っていたものについて少しは説明できると思うわ。』

直感的に彼は、この矢が今まで彼女が追ってきたものと深く関係していると悟った。
すべての状況が、この矢は確実に彼女を殺すために射られたものだと言っている。
その者はきっと、すべての証拠を隠滅するため、ここに火をつけたのだろう。

男は硬い表情で矢を持ち、彼女を両手で抱き上げた。
もうここに用はない。
少しでも早く、彼女を安らかに眠れる場所へ連れていこう。
立ち込める煙と血の匂いを背に、男は二人だけの場所へと足を運んだ。

夜明けが訪れようとしていた。
男は自分の手で、二人の思い出が込められた森の中に彼女を眠らせた。
ここに再び帰ってこられたことを、きっと彼女も喜んでいるだろう。
土に覆われた素朴な墓の上に、彼は小さな花を供えた。
墓を眺める彼の顔は、堪えきれない悲痛な想いで歪んでいた。
涙はなかった。
ただ、彼の口からは、息とともに小さな呻き声が漏れていた。

『どうしてそんな顔するの、ね。明日また会えるんだから。』

遠い空の向こうから、彼女の優しい声が聞こえてくるようだった。

こうやって彼の短い春は終わりを告げた。
そして再び、以前よりも遥かに長い酷寒の冬が訪れた。
彼女が追っていたもの、彼女を殺した者の後を追える唯一の手がかり。
彼は折れた矢を取り出し、強く握り締めた。
この物の出処を追っていけば、いつか必ず真実に辿り着けるはず。
今から、彼女を殺した者を捜しに出る。
何ヶ月、何年かかろうが構わない。
必ず捜し出して彼女の死の理由を聞き、その罪を償ってもらう。

きっと彼女は、復讐を喜んではくれないだろう。
信念のために命を捧げた彼女は、それが本望であったのかもしれない。

でも…、

「…あなたは言った。これからは自分の人生を生きるのだと。それは…あなたのための復讐だ。これが俺自身のために生きる人生の第一歩だ。どうか見守ってくれ。」

男は後ろを向いた。

「…じゃあ。いつまた会えるか分からないが、必ず戻ってくるよ。」

伝えきれなかった言葉をぐっと飲み込み、彼はありふれた別れの挨拶を残して森を去った。
墓に供えられた小さな花だけが、彼を見送るように風に乗ってひらひらとなびいていた。

とある街の酒場。

男は酒場の端に座り、カルブラム傭兵団所属のゲレンというほら吹き者の話を聞いていた。
傭兵団の第二人者は自分だとか、自分が前回の任務で大活躍して功績を立てたといった、虚勢混じりの話を、彼は辛抱強く聞き続けた。
「俺様の活躍が凄すぎたせいか、最近は『ロチェスト王国騎士団』から直接協力要請が来るほどなんだぜ。」
遂に、彼が待っていた言葉が男の口から飛び出した。
ロチェスト。男は手に持っていた折れた矢を胸元に入れて席を立った。
そして男に近づき、こう言った。

「俺の名前は『カイ』、
カルブラム傭兵団へ入団を希望する。案内を頼む。」

マビノギ英雄伝公式サイト

「カイ キャラクターストーリー」より

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