ベラ :: キャラクターストーリー

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女性はとても退屈そうに見えた。
宿屋の主人は不安げに彼女をちらちらと横目で見ながらホールを掃除していた。
朝の日差しの中、埃がぱらぱらと舞い上がったが、ソファに寝そべっていたその女性はまったく気にしなかった。

それどころか謎の鼻歌まで歌っている。
宿屋の主人はだんだん不安になり、その不安を打ち消すかのようにほうきを激しく動かした。
そのせいで宿屋のホールには巨大な砂埃が立ち込めていた。

どうしてこんなことになったのだろうか?
宿屋の主人は気づかれないようにため息をつき、女性が宿屋に入ってきた時のことを思い返した。

こんな人里離れた海辺の村には旅行客などめったにいなかった。
宿屋というより地元の人々の酒場と化していたため、宿屋の主人は久しぶりの客がとても嬉しかった。

「傭兵ですか?」
「傭兵?」

人殺しでもしそうなその視線に宿屋の主人は凍りついた。

「よく覚えといて。私は傭兵が大嫌いなの。」

あの時に追い出すべきだった。
とっさに吹っ掛けた高い部屋代に彼女がすんなり応じることさえなければ、きっと追い出していただろう。

それがちょうど一週間前の出来事だ。その一週間のうちに宿屋の主人は一生分の事件や事故を経験したと断言できる。

初日は巨大な魔物の死体を馬小屋に入れるはめになった。
置く場所がないから置かせてほしいという女性の切実な視線とずっしりした金貨袋を前に、気の弱い主人は断れなかった。
どうせ馬小屋にいるのは荷車を引く年老いたラバが一頭だけで、スペースは有り余っていた。
その夜、宿屋の主人は空から金の雨が降る夢を、馬小屋のラバは魔物が蘇って自分を食いちぎる夢を見た。

二日目も見たことのない魔物の死体だった。
初日の出来事で肝が据わった主人はその日も首を縦に振るしかなかった。
前日と何も変わらないことだった。
その魔物が実は完全な死体ではなく、夜中に目を覚ましたことを除けば…。
思い返せば馬小屋のラバが見たのは予知夢だったのだ。
人間に生まれていたら有名な予言者になっていたかもしれないラバは、尻尾を食いちぎられただけで命は助かった。
そしてその日も金の雨が降る夢を見ていた主人は、宿屋を飛び出すと血の雨を浴びた。
起こしてしまったことを笑顔で謝る女性を前に、主人は放心状態で頷いた。
魔物を殴りつけたのか斬りつけたのか…光など一筋も見えない暗闇の中、双剣の先から滴り落ちる血だけははっきりと見えた。

そして三日目は……。
何をすれば一日で呪いにかかった遺物を見つけてこられるのだろうか?
宿屋の主人はこの村で生まれ育った。
近くにそのような遺跡があるという話は聞いたこともなかった。
いや、もしかして…。隣の家のおばあさんがときどき正気に戻ると話してくれた昔話にそのようなものがあった気がする。
しかし正気でない時はいつも世界が滅亡すると叫んでいたおばあさんだった。
主人は身震いし、立ち上った埃でくしゃみをした。
視力は良くなったが、鼻炎はひどくなったようだった。

とにかく重要なことは、一週間前の平和がまるではるか昔のように感じるという事実だった。
女性を追い出そうと何度も思った。
しかしその度に彼女は剣を磨いていたり、魔物の皮を剥いでいたり、不吉な気を帯びた何かを熱心に磨いていた。
見た目は山賊でも気は弱い宿屋の主人にとってそれはあまりにも衝撃的な行為だった。

床は十分に磨いたし、テーブルも全てピカピカだ。
他に汚いところは……。

宿屋の主人は女性が座っているソファをちらっと見て深いため息をついた。
近づいたら何か悪いことが起きる予感がした。
心の中で思い切り悪態をつきながら宿屋の主人は宿泊者名簿を開いた。
何度見ても宿泊客は一人だけ。宿泊者名簿の一番下にはその忌々しい名前が書かれていた。

ベラ。
二度とこの名前には近づかないと宿屋の主人は自分自身に誓った。

ベラは退屈だった。
おかしいわ…。おかしなくらいつまらない。
ベラはつぶやいた。
宿屋の主人が聞いていたら驚いただろうが、彼は幸い彼女から最も離れた場所にいた。

とても良い予感のする村だった。
率直に言って、大当たりの予感がしていた。
彼女のトレジャーハンターとしての人生の中で、これほどの予感は初めてだった。

そしてその予感通り、平凡な村にしては収穫があった。
珍しい魔物を二体も倒し、忘れられたダンジョンも制覇した。
だがそれからは何もなかった。
…そんなわけがないわ。

彼女の勘は一度も外れたことがなかった。
納得がいかず、彼女は村の子供たちのおもちゃやペット探しの依頼まで受けた。
おもちゃは悪霊が取りついた呪術人形で、ペットはまだ子供のグレムリンだった。
しかし彼女の勘が確かならば、少なくとも忘れられた神物や正体を隠した魔獣くらいでなければならなかった。

これまでに彼女の勘が外れたことはたった一度で、その一度のせいでずっとトレジャーハンターの仕事をしながら放浪していた。
もし今回も外れているならば、その時のようにひどい災難に遭うのだろうか?
何せ過去に一度しか起きていないことなので彼女にも分からなかった。

…本当に嫌だ。
ベラはソファに深く体を埋めた。
遠くから静かな波の音が聞こえてくる。
この村で唯一好きなところはそれだけだった。
海辺。
カモメの鳴き声。
空気に混じった潮の匂い。
幼い頃の故郷を思い出させる平和な雰囲気……。
時間を潰すには悪くない村だった。
もしかしたら今の彼女には休息が必要で、だからこのような場所に辿り着いたのかもしれない。
そうね。たまにはじっと待つことが美徳なのかもしれない……。

「あぁ…一体いつ現れるのよ!」

ベラはもともと短気な性格だった。
そして幸い運命はいつも彼女の味方だった。

「部屋はありますか?」

カウンターの後ろから傷だらけの宿屋の主人が飛び出してきた。
先ほどベラの叫び声に驚いて椅子から落ちたからである。
あの女性以外の人間なら誰でもよかった。
宿屋の主人は明るく笑いながら、

「はい、ありますが……」

男は典型的な放浪者の出で立ちをしていた。
土埃をかぶった服は歳月の痕跡がわずかにあったが、物が良いせいか、古いと言うより年輪を感じさせた。
ここまでは記憶に残らない旅人に過ぎなかった。
しかし宿屋の主人は思った。
あの女性が現れてからロクなことがない…。
男は宿屋の主人から見ても驚くほど整った顔をしていた。
宿屋の主人はそれ以上言葉を続けられず口をパクパクさせた。

しばらく訝しげに思っていた男は宿屋の主人の視線を追って振り返った。
彼を殺さんばかりの形相でにらむ女がそこにいた。
人違いだろうか?
最初男はそう思った。
だが、すぐ既視感に襲われた。

「あ……。」

男は頭の中に浮かんだある名前を口に出した。

「ベラ?」

スッ……答えの代わりに聞こえてきた音を合図に男は振り返って走り始めた。
そして双剣を抜いた女が彼を追いかけた。

どうしてあいつがここに。
追う者と追われる者は同じことを考えながら必死に走った。
慌てて走る男の前に砂浜が広がった。
焦る気持ちとは裏腹に砂に足を取られてしまった。
男は自分を追う女も同じ状態であることを切実に願った。

しかし女はまるで飛ぶように砂の上を軽々と走っている。
砂を蹴り上げる軽やかな足音が波の音に混じって聞こえてきた。
足音は次第に近くなり、男は逃げ場を失った。
いや、まだある。
男は海へ飛び込んだ。
さすがにあの馬鹿デカイ双剣を持って海には入ってこられないだろう。
ならば勝算は自分にあると男は思った。

予想通り女は海辺に立ち止まり、男は歓喜した。
だが次の瞬間、激しい波が彼を飲み込んだ。

気がつくと、男は砂浜の上で水を吐き出していた。
海水を飲み込んだ鼻と喉が死ぬほど痛かった。
だがそれより男には空気が必要だった。
慌てて息を吸うと喉まで来ていた海水が再び鼻の中に逆流した。
男は死ぬほど咳き込んだ。

 

 

ベラは男が落ち着くまで静かに待った。
だが少しマシな状態になった男がこそこそ這って逃げようとしたので、
容赦なく脇腹を蹴ってやった。
男は脇腹をつかみながらのたうち回った。

「ほ、骨がぁ!骨が折れた!」

「ひざまずきな。」

「はい。」
男は大人しくひざまずいた。
そして捨てられた子犬のように彼女を見上げた。

「チッ。」
「助けてくれ!」

男は地面にひれ伏した。

「助けてやったじゃない。」

ベラが海の方を指差した。

「海辺出身の私の前で海へ逃げるなんて馬鹿なの?」

男は魂が抜けたようにぼうっとまばたきした。
ついさっきまで死にかけていたのだから当然だろう。
ベラもそれは理解していたが、気にせず話を続けた。

「ねえ、あんた。私をさらった村のことなんだけど、どこなのか覚えてるの?」

男の顔は一気に青ざめた。

「すまなかった!あの時は俺も若かったし、貧しかったんだ。役立たず扱いされて、お前を連れてこなければ傭兵団から追い出すと言われて……。で、でも俺のおかげで助かったじゃないか!」

ベラは必死に言い訳する男を黙らせようとした。
しかし最後の言葉が気になった。おかげで助かったって…誰が?

「おかげで助かったって、どういうこと?」

男はまたぼうっとした表情でまばたきした。

ベラは当時まだ十歳だった。
村の名前も、位置も知らなかった。
十数年放浪したが、自分をさらった傭兵団も、自分がさらわれた村も見つけられなかった。
今すぐにでも聞き出したかったが我慢した。
知りたくてたまらないと態度に出すことは弱みを見せることになるからだ。
ベラは落ち着いた素振りで腕組みした。

「死にたいなら遠慮なく言って。いつでも海に放り込んであげるから。」
「い、いや……。し、知らないのか?」
「何のこと?」
「実は……あの村は……。」

男は真実を言って自分の命がどうなるか確信が持てなかった。

「……全部燃えちまった。焼き尽くされたんだ。」
「何ですって?」

ベラは目を見開いた。

「今、何と言ったの?」 

ベラは十歳だった。
好奇心が旺盛で、好きなこともたくさんあった。
海で泳ぐことや、砂をかき分けてキラキラ光る貝や小石を見つけることも好きだった。
彼女の部屋の窓辺には一番きれいな戦利品だけを入れておくガラス瓶が置いてあった。
いっぱいになると新しいガラス瓶を持ってきた。
今まで集めたものをどれも捨てたくなかったからだ。
天気が良い日にガラス瓶と中の珊瑚や貝、小石がキラキラ光るのを見て、いつかこれを高く買ってくれる人が現れないかと妄想したりした。

しかし一番好きなのは傭兵とトレジャーハンターだった。
どちらかを選べと言われたら彼女は選べなかった。
ガラス瓶から一つを選べないのと同じように。

村には稀に旅人が訪れることがあった。
そんな日は、村中の子供たちが宿屋として使われる村長の家に押しかけた。
大概追い出されたが、たまに親切な旅人が子供たちを集めて話をしてくれた。
海辺で囲んだ焚き火の前で、旅人の顔は世界で一番物知りな賢者のように輝いていた。
傭兵やトレジャーハンターの話になると、ベラは一言も聞き逃すまいと注意深く耳を傾けた。

世界を股に掛ける傭兵やトレジャーハンターはベラにとって英雄のような存在だった。

「私、大きくなったら傭兵になるの!」
「前はトレジャーハンターになるって言ってなかった?」

向かいの家のマリがからかってきた。

「両方やればいいもん!」
「両方なんて無理よ。あんたはどっちもできないわ。村の外に出たこともないくせに。」

憎たらしい少女だった。
ベラはあまりにも腹が立って息が荒くなった。
マリの祖父は近くの都市で雑貨屋を営んでいたため、彼女は何度かその都市に行ったことがあった。
一方ベラは一度も村を出たことがなかった。
都市に出ても親戚一人いないので泊まる場所もなかったが、それ以前にベラの家族は都市に向かう馬車代を支払う余裕すらなかった。
貧しい漁師の家系にとって海辺の村とは生計を立てるための基盤だった。
簡単に村を去れるはずがなかった。

不愉快になったベラはマリの髪を引っ張ってやりたかったが、ぐっと堪えて海辺の小さな小屋を訪れた。
この時ベラはまだ我慢強い子供だった。

「よお!今日も来たね、お嬢ちゃん!」

彼女が海岸の小屋に顔を出すと、人々は笑顔で彼女を迎えてくれた。
いかつい男たちが砂浜にぐるりと座ってリュートの弦を弾いていた。
十年近く空き屋だった小屋に十人余りの人々が流れ込んで住み始めたのは一ヶ月ほど前のことだった。

それ以降、静かだった小屋は昼も夜も踊りや歌で賑わっていた。
彼女がここで過ごしていたことが知られれば母親に怒られることは明らかだった。
しかしそれでもベラはこの場所が好きだった。

「そうか。今日も俺たち傭兵団の武勇伝を聞きに来たのか!」
「うん!」

顔に大きな傷跡のある男が彼女を喜んで迎えた。
男の顔からはどこか険しさが感じられたが、不思議なことに彼女にはそれがかえって心地よかった。
おかしな気分だった。
おそらく彼らが彼女にとって生まれて初めて見る「傭兵」だったからだろう。

傷跡のある男がベラを小屋の近くにある丸太の椅子へ連れてきた。
その姿を見てリュート演奏者の前で踊っていた男の子が踊りを止めて彼女の方に来た。

「ようこそ、ベラ。」

男の子は海辺の田舎村では珍しいきれいな顔立ちだった。
幼いが整った目鼻立ちをしていた。
彼はこの傭兵団で一番若い末端だった。
短い金髪を無理やり後ろに流した少年の顔には男らしさと女らしさが適度に混ざった優雅な雰囲気が漂っていた。
男の子はベラに近づき、山葡萄で作った飲み物を差し出した。
傭兵団では末端だが、彼女よりは何歳か年上だった。

「私も傭兵になりたい!」

雑談の最後はいつも傭兵になりたいという話で終わった。
彼らの自由な生き方を見るたびに、ベラの心の中では傭兵になりたいという熱意が一層高まった。
どこにも縛られず自由に音楽と踊りを楽しむ傭兵団。
それは傭兵に対する間違った第一印象だったが、幼いベラがそんな事情など知る由もなかった。

傭兵団の人々はベラの宣言を聞く度にいつもケラケラと笑った。
小さな子供がいい度胸をしているとあざ笑っていたのだ。
ベラは男たちのそんな偉そうな態度が嫌いだった。
いつかあいつらよりずっと立派な人間になって懲らしめてやると誓った。
だが、唯一傭兵団で末端の少年だけは真剣な眼差しで彼女を見つめていた。

「お前ならできる、ベラ。その素質があると思うよ。」

その言葉を聞いてベラはにっこりと笑った。
いつも自分を認めてくれるのはその少年だけだった。
その時、一人の大男が二人の間に割って入ってきた。

「傭兵になりたいだと?それなら早く決めないとな。俺たちはもうすぐここを発つからな!」
「え……?」

大男は頷くと片手に持った酒瓶を一口ごくりと飲んだ。
酒臭い口元を袖でぬぐった彼は少年を見てにやりと笑い、他の仲間たちのもとへ戻っていった。

「ここを出ていくの?本当に?」
「ああ。俺たちはもうすぐ出発する。都市から傭兵団に大きな依頼が入ったんだ。」

少年はいかにも真剣そうな顔で話し出した。
大げさに話していることは表情を見れば誰でも分かったが、ベラはまったく気づかなかった。
都市に行っちゃうんだ…。ベラががっかりと気を落とした直後だった。

「だから最後に特別な友達だけを呼んで秘密のパーティーをやる予定なんだ。」

少年はパーティーという単語に力を入れて話した。
ベラの耳はグレムリンの耳のごとくピクリとその言葉に反応した。
パーティー!ベラはこれまでたった一度もパーティーというものに行ったことがなかった。
向かいの家のマリが都市で開かれたパーティーの自慢話をする度、ベラは彼女の頭を小突いていた。それがベラの知るパーティーの全てである。
そんな彼女が初めてパーティーに参加できると聞き、胸の高鳴りを抑えられるわけがなかった。

「これは秘密のパーティーだから誰にも言うなよ。」

少年の言葉にベラは何度も頷いた。

どうして今日に限って太陽が動かないのだろうか?
日が沈むのをここまで待ち望んだのは初めてだった。
母親にもマリにもばれずパーティーに参加するために、ベラは一日中片手で自分の口を押さえていた。
もしかしたら無意識にパーティーという言葉が出てしまうのではと心配だった。
ついに太陽が村の裏山に沈もうとしていた。
待ちに待った夕暮れ時が来たのだ。
ベラは後ろを振り返りもせず海辺の小屋へ走っていった。

パーティーは彼女が思っていたよりずっとささやかなものだった。
いつも聞いていたリュートの旋律と歌声、いつも見ていた踊りに加わったものと言えば、昼の太陽の代わりに赤く光る焚き火くらいだった。
パーティーにはベラ以外にも普段から傭兵になりたいと言っていた村の子供たちが何人かいた。
秘密のパーティーと言っておきながらそこらにいる子供を適当に集めただけじゃないか…。ベラはそう思うとすっかり不機嫌になった。

「ベラ。お前に見せたいものがあるんだ。」

小屋の近くでぶらぶらしていた彼女の前に末端の少年が現れた。
彼は焚き火の方へ手招きし、丸太の椅子にベラを座らせた。
少年が見せたがっていたのは腰のところに挿した双剣のようだった。
彼はスッと双剣を取り出した。三日月をかたどったような二本の剣が焚き火の明かりを受けて赤く光った。
双剣を握った少年は焚き火の周りをぐるぐる回りながら踊り始めた。
それを見ていた子供たちから嘆声が沸き上がった。
とても華麗な動きだった。
しかしベラの目には何だか雑な動作に見えた。

あれくらい私だってできる。
ベラは焚き火をするための木材の中から乾いた枝を二本拾い上げた。
そして少年と同じ動作で踊り始めた。
まるで水のように滑らかな動きとともに、人々の視線は少年ではなくベラに移った。
彼女の動きはまるで全身で自由を表現しているようだった。
水の流れのように不規則に動きながらも、繰り返し感じられるリズムが見る人を魅了した。
少年を含むパーティー場にいる全ての人々が次第にベラの踊りに夢中になっていった。

すると、ベラが焚き火に向かって跳躍し、宙返りした。
彼女を見守っていた誰もが息をのんだ瞬間だった。
しかし彼女は皆の心配などお構いなしに、炎の目の前に正確な姿勢で着地した。
その姿に割れんばかりの拍手が沸き起こったのは当然だった。

「ハハ、こいつは一本取られちゃったな。」

少年は首を横に振りながら苦笑いを浮かべた。
自分がこれまで懸命に練習して身につけた動作をいとも簡単にやってのけられたのだ。少年はそう言うしかなかった。

「俺たちは今晩出発する。」

少年が彼女に手を差し出した。

「やっぱりお前には才能があるよ、ベラ。俺たちと一緒に傭兵にならないか?」

ベラは戸惑った。
少年の手。それは傭兵になれる片道チケットだった。
彼女があんなにもなりたかった傭兵という夢は、少年の手さえ握れば叶うはずだった。

しかしベラは悩んだ末、首を横に振った。

「お母さんを置いては行けない。」
「そうか?ならしょうがないな。」

少年は残念そうに笑った。
焚き火に照らされた彼の顔はどこか暗く見えた。

 

 

焚き火が消える頃、村の子供たちは一人二人と家へ帰り始めた。
名残惜しい気持ちでいたベラの前に少年が来ておにぎりを一つ差し出した。

「さぁ、食べな。」

ベラはあまり気が進まなかった。

「要らない。」
「もらってくれよ。最後のお別れのプレゼントだぞ。」

そう言うと少年は強引におにぎりをベラの手に持たせた。
思い返してみれば、その言葉に騙されてはいけなかった。

「うん、分かった。」

仕方ない。
彼女は少年の見ている前でたった一口だけ食べて家に帰るつもりだった。

しかし当時のベラには分からなかった。
男が密かに渡した好意が何を示しているかを。

残念だがそろそろ別れの挨拶をしないと。ベラはそう思った。
しかし彼女はその後たった一度も傭兵団と別れの挨拶をすることはなかった。

コロコロ…。
彼女の手から小さな歯型の残ったおにぎりが転がり落ちた。
そしてそれと同時にベラの意識も……。
どこか深い場所へと落ちて行った。

次の瞬間、彼女が目を開けたのはどこか分からない暗い空間だった。

ガラガラガラという音に合わせて床が上下に振動した。
そしてそのたびに床に寝かされた彼女の頭が左右に激しく揺れた。
頭がズキズキ痛んだ。

ここは一体どこ?
全身が砂に埋もれたように重かった。
まぶたを上に上げるのも一苦労だった。
やっとのことで目を開けると、目の前には床に置かれたガス灯とそれを囲む男たちが見えた。

「新しく取り寄せたあの薬草。ちょっと効きすぎなんじゃないですか?」
「あんな子供に使うために作ったものじゃないだろうから……今度からは半分でよさそうだな。」

ガス灯を囲んだ男たちの声だった。
まだ視野がぼんやりしていて顔を確認することはできなかったが、彼女は会話をする二人の声を覚えていた。
傭兵団員のうち顔に傷跡があった男と大男の声だった。

「それはともかくあれほどの小娘なら高く売れそうだ。あの子が剣舞を踊るのを見たか?」
「今回はチビの手柄だな!」
「ハハ、何てことないですよ。子供たちは秘密という言葉に弱いですから。」

あの少年の声だった。話から判断すると、彼らは彼女をどこかに売り飛ばすつもりのようだった。
傭兵団というのは全て嘘だったのだ!
その当時、大陸では傭兵団と偽って各地を巡り、子供たちを売買する組織がはびこっていた。
幼いベラの胸に裏切られた怒りと悲しみが込み上げた。
傭兵団になりたいという夢さえ見なければこんなことにはならなかった…。
そう思うと怒りが抑えられなかった。

今すぐにでも彼らに向かって怒鳴り散らしたかったが、これまでの状況から考えて自分が目覚めたということを知られないほうがよさそうだった。
ベラは動揺する気持ちを抑えてできるだけ息を潜めたまま静かに時が来るのを待った。

男たちの声の後ろから聞こえてくる規則的な馬のひづめの音が今どこにいるかを教えてくれた。どうやら彼女は荷馬車に乗せられているようだった。
ベラは目をつぶり、必ずチャンスは来るはずだと信じて時を待った。
閉じたまぶたの上でガス灯の光がゆらゆら揺れた。
男たちが言っていた薬草の効果のせいか、疲労のせいか、この火の光が揺れるたびに眠気に襲われた。
今眠ってしまったら逃げるチャンスを永遠に失うかもしれなかった。
ベラは眠気と戦うためにこっそりと拳を力いっぱい握った。

眠ったらダメだ。
握った手のひらに彼女の小さな爪が食い込んだ。
そしてそのたびに痛みが彼女を眠気から遠ざけた。

やがて荷馬車が目的地に辿り着いた。
馬車が止まると団員たちは先に荷馬車の外へ飛び降りた。

「チビ。俺たちは先に入ってるから、バレないように気をつけて運べよ。」
「落としたりするんじゃねえぞ。大事な商品なんだからな。クハハハハ。」

男たちは末端の少年にそう言って足音とともに離れていった。

「はぁ。いつまでこんな後始末ばかりさせられるんだろう。」

少年は腹立たしげにため息をついた。
そして一人になると、まだ床に寝ているベラを抱き上げるために手を伸ばした。
それがベラにとっては最後のチャンスだった。

「ん?」

次の瞬間、目を開けたベラが少年の顔に向かって蹴りを入れた。
少年の顎にハンマーで殴られたような衝撃が走った。
彼が倒れた隙に馬車から素早く飛び降りたベラは、男たちが消えていった方向とは反対方向に逃げ始めた。

「この野郎!」

気絶したと思っていた少年は吐き気とともに起き上がり、ベラを追いかけた。
そこから激しい追撃戦が始まった。
ベラは道も分からないまま暗い夜の林道を振り返りもせず駆け抜けた。
薬草の毒が全身に広がっている状態でもベラは驚くほどに速かった。
先天的に身体能力が人並み外れているおかげだった。
しかし追いかける少年も速かった。
彼もまた彼女を逃したら先輩団員たちに殺されるという思いから必死に距離を縮めてきた。

月明かりの下で林道をどれだけ走っただろうか?
ふとした瞬間、ベラはこの道は間違っていると感じた。

それはおかしな感覚だった。
この道の果てには結局行き止まりが出てくるという漠然とした感覚。
そしてそれと同時に、林道の横に伸びた稜線のような斜面を目指すべきだという衝動に駆られた。
一歩間違ったら命を落とす危険もある坂道だった。
しかし彼女の中にはすでにこの道を進まなければ少年に捕まってしまうという根拠のない確信があった。

ベラはその心の声に逆らうことができなかった。
決断とともに彼女は月明かりの差す斜面へと方向転換した。
後ろから少年の驚く声が聞こえた。
予想外の彼女の動きに対応できなかったのだろう。
斜面に入ると月明かりの差す面積がぐんと減った。
そのうえ下り坂の加速度までついたせいで、一歩一歩慎重に踏み出すことすらままならない状況だった。
しかしそんな悪条件の中でもベラはずんずんと正確に目指す場所へと足を伸ばした。
もう立ち止まるという選択肢はなかった。
下り坂が終わるまで彼女は休まず走った。

坂道が終わって平地に辿り着いた時、彼女の前に現れたのは林道の間に隠されていた小さな洞穴だった。どうしてこんなところに洞穴が?という疑問が自然に浮かんだが、疲れた彼女にはそれほど重要な問題ではなかった。彼女は即座に洞穴の中に潜り込んだ。自分を追ってくる者の足音はそれ以上聞こえなかった。もう逃げなくていいという安堵感が彼女の意識を温かく包み込んだ。洞穴の壁に頭をもたせかけたまま、彼女はいつの間にか眠ってしまった。

「えぇい、くそっ。確かにこの辺りなのに。」
「まったく。もう何日目だよ。そろそろ何か見つけろ!遅れたら違約金を払わなけりゃならないんだぞ。」

洞穴にも太陽の光が徐々に差し込む頃だった。
ベラは洞穴の外で言い争う二人の声で目を覚ました。
まさか傭兵団がもうここまで。

「そんなことは分かっている!」

グウゥゥ…。
こんな状況でもちゃんとお腹はすくんだな。
気がつくとベラは寒くて眠くて空腹だった。
お腹は何日も食べていないようにグウグウ鳴り、夜露のせいで全身がびっしょり濡れて風邪を引きかけていた。
傭兵団でも何でもいいから、一刻も早く洞穴の寒さから抜け出して太陽の光を浴びたい気持ちだった。

「とにかく今日こそは何か見つけるぞ!分かったな?」

洞穴の外の二人は傭兵団かもしれないと思ったが、ベラはこれ以上耐えられなかった。
昨日あんな目に遭ったんだから二度目はないだろう。
自暴自棄にベラは洞穴の外へ出た。

「あの、何か食べ物をくれませんか?」

森の中から突然ベラの顔が出てくると、洞穴の外の二人は悲鳴を上げた。

ベラの手にはバターがたっぷり塗られたパンが握られていた。
二人の旅人が彼女にくれた食糧だった。
最初はうろたえるあまり天に向かって祈っていた二人だったが、彼女が一部始終を説明すると次第に落ち着きを取り戻した。

「あの、この近くに海辺の村は……。」

しかし話が続くにつれ、二人はベラよりも昨晩彼女が泊まった洞穴に興味を持ち始めた。

「おい、もしかしてここが……」

洞穴の入口を見つめていた二人の目が大きく見開かれ、何かを話そうとしていたベラを置いて自分たちだけで洞穴の中に入っていってしまった。
そしてしばらく姿を見せなかった。

置いていかれたベラは二人が分けてくれた食糧を食べながら午後の日差しを満喫することにした。
すでに食べ物は手に入れたので、二人がいつ帰ってこようと彼女はあまり気にしなかった。

そしてしばらくして洞穴の中から二人の歓声が聞こえた。
洞穴から飛び出してきた二人の手には小さな遺物の器があった。

「こ、ここだ。ここが俺たちの探していた遺跡だ!」

二人は嬉しそうに笑いながらベラを幸運の女神でも見るかのように見つめた。
二人がなぜ喜んでいるのか彼女には分からなかったが、自分の話にも興味を示していることから悪いことではないと感じた。

「海辺の村?さぁ……。この辺りは山しかないと思うが。」
「村の名前も知らないのか?それじゃ分からないよ。海辺の村ってだけじゃ大陸だけでも数百という村があるからな。」

二人の反応からすると、すでに海辺の村からは遠く離れたところまで来てしまったようだった。

「しょうがない。俺たちもある意味お前に助けられたわけだから、俺たちと一緒に行こうぜ。」

ベラは仕方なく二人と一緒に動くことにした。

 

 

二人は古代王国の遺物を発掘するために世界各地を旅するトレジャーハンターだった。
自分が夢見ていた傭兵に幻滅したせいか、二人がトレジャーハンターだという事実を知ってもベラは別段何も期待しなかった。
しかし二人と旅をする中でベラは自分に存在する新しい能力を知るようになった。

「今回はここに行ってみたらどうでしょう?」

それは言うなれば強力な直感だった。
ベラが提案する道の先にはいつも二人が歓声を上げるほどの遺物や宝の痕跡があった。

「お嬢ちゃんのおかげで金持ちになれそうだよ!」
「ベラ、お前の勘は本当にすごい!お前なら立派なトレジャーハンターになれるぞ!」

そうしてベラは自然の流れでトレジャーハンターとしての生活を送るようになった。
故郷である海辺の村が一体どこだったのかは思い出せなかったが、トレジャーハンターはもともと各地を旅する職業だからいつかは見つけられると期待したのだ。

 

 

それから長い月日が流れた。
結論から言うと、彼女は未だに故郷を見つけられずにいた。
彼女の勘に導かれるまま海辺の村は片っ端から訪れた。
彼女の体からはいつも海の香りがするほどだった。
それなのに故郷の村はまったく見つからなかった。

彼女の勘が導く場所へ行くと、いつも彼女の期待より大きな何かがそこで待っていた。
時には古代王国の秘密が、時には魔術師たちの作った邪悪なダンジョンがあった。
もう彼女は欲しい物は何でも見つけられると言っても過言ではなかった。
それなのになぜ生まれ育った海辺の村だけは見つけられなかったのだろうか?
今日こそはその理由を聞かなければと彼女は思った。

「もっと詳しく話して。」
「お、お前が消えてから……あの村には山賊がやって来たんだ。」
「山賊?」
「ああ。村を守っていた傭兵団が消えたという噂を聞いて……一稼ぎしようって奴らがな。」
「……そんなバカげた嘘を誰が信じると思うの?」

ベラが再び双剣を取り出そうとすると、かつて傭兵団の末端だった男はまた頭を下げて悲鳴を上げた。

「ほ、本当だ!信じてくれ!俺たちが狙っていた子供たちも……村人も…全員死んだんだ。だから俺は、お前の命を救ったとも言える!命だけは助けてくれぇっ!」

ベラはずうずうしいことを平気で言う男の胸ぐらを掴み上げた。

「助けてやる代わりに、あの村に私を連れていってもらうわ。」

宿屋の主人はこの悪夢が早く終わることだけを祈りながらカウンターの中で身を固くしていた。
片方の手には二人が外出している間に神殿からもらってきた小さな女神像が握られていた。
先ほど、朝に宿屋を飛び出していった女性と男が一緒に帰ってきて再び出発する準備をして……いるように見えた。
男は今すぐにでも女性から逃げたい雰囲気だったが、そのような気配を感じるたびに女性は剣を取り出して男の背中を突いていた。

「逃げようなんて思わないでね!」

女性が叫ぶ度に宿屋の主人は気弱になった心を落ち着け、女神像を魔法のランプのようにこすりながら心の中で女神の名を叫んだ。
今からでも村の警備隊のところに駆けつけて女性を通報するべきだろうか。
宿屋の主人は一瞬悩んだ。
しかし女性のもう片方の剣が自分に向けられることを考えると怖気づいて動くことすらできなかった。

一騒動が終わり、女性と男は村の入口で馬車を捕まえて出ていった。
宿屋の外へ出てその光景を見守っていた宿屋の主人は、馬小屋のラバとともに馬車が遠くへ行く姿を力なく見守った。
ついに馬車の影が稜線の向こうへ消えると、全てが終わったことに感謝しながら二人(正確には一人とラバ一匹)は互いに抱き合って熱い涙を流した。

男に案内された場所。
そこはベラの故郷の村があった「敷地」だった。

村の全てが廃墟と化し、何も残っていなかった。
木材でできた建物や施設は全て風化してなくなり、石材でできた建物の土台と何本かの柱が残っているだけだった。
ただ海岸線だけが幼い頃のままだった。

「それじゃ、俺は…もう行ってもいいよな?」

男の質問にベラは答えもしなかった。
男はしばらく彼女の顔色を窺ってからどこかへ逃げて行った。
ベラにはもう男を追いかける理由がなかった。

ずっと故郷を探し続け、回り回って辿り着いたのが…廃墟か。
なんだかもやもやして、気が抜ける。

さあ、目的は十分果たしたし。一体、この先何をすればいいんだろう?

ベラの頭に思い浮かんだ悩みはそれだけだった。
トレジャーハンターは飽きるほど経験したし、傭兵にでもなろうかな?
悩んだ末に思い浮かんだ答えはどういうわけか傭兵だった。
あんなに憎悪していた傭兵を?どうして今さら?

『私、大きくなったら傭兵になるの!』
『前はトレジャーハンターになるって言ってなかった?』

遠い昔の会話をふと思い出した。
それから何と答えたっけ?

「……じゃあ、両方やればいいもん!」

そうだ。一度決めたことをやらない理由なんてなかった。
世界には自分をさらったようなクズみたいな傭兵団もあるだろうけれど、どうにかなるだろう。

始めから最高の傭兵団を探せばいいんじゃない?
心配することは何もない。
他はどうあれ、「勘」だけは誰にも負けないから。

 

マビノギ英雄伝公式サイト

「ベラ キャラクターストーリー」より

 

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